算命学の神髄
算命学は、かつて中国の戦国時代に、王家の帝王学として尊重され、処世術や軍略、又は政治に用いられ、永い間秘伝とされてきました。やがて、その哲学的教えを一般大衆わかりやすく伝える為、「占術」という形で広く庶民に伝わりました。時に算命学は「東洋占術」とも呼ばれますが、占いの為に考案された学問ではなく、算命学の学説を世に伝えるために二次的に生まれた応用範囲が占術なのです。算命学の神髄は、「実生活と常に一体である」ということ。哲学的教えも、占術も、人々の毎日の生活に実際に活かしてこそ意味があるのです。
算命学とは
少々固い言い方をすれば、算命学とは「古代東洋哲学」「古代東洋人の自然観」、或いは「分類学」等と言われていますが、分かり易い言い方では、広い意味での人間学であり、運命学であり、また、個人の性格、生き方、運気、果ては国家や企業の方向性、リーダーの資質や動きなどを細かく予測できるため、予知学とも言えます。
陰陽・五行説を根幹とした算命学は、人生の地図作りのようなものにも例える事ができます。
登山者が、未知の山岳を超える時、地図を携え危険を避けるように、個人の人生という未知の山を歩く時にも地図のような道しるべがあれば、目的を見失ったり、方向を間違えないで済むかもしれません。その地図こそが算命学なのです。
日本への伝来
中国における算命学は「一子相伝」とされ、口伝によっていくつかの家系にのみ伝えられてきました。
「呉家」一族がそのひとつ。やがて、その呉家の最後の伝承者となる「呉 仁和」師が、1966年の文化大革命を見事に予測し、日本に亡命したことで、日本に算命学が伝わったとされています。
その後、呉 仁和師は長崎の寺院に寄宿。当時、近所に住でいた、木材問屋の息子「高尾義政」13歳を養子に迎え、秘伝とされていた算命学理論を引き継いだのです。そして、この高尾義政が13代宗家(日本では初代)となり、見事に算命学の膨大な理論を整理・統合し、一般の人にもわかりやすく体系化したことから、算命学が本格的に日本で知られることになったのです。
古代東洋人の自然観察
算命学を作り出した古代東洋人は、「人間とは如何に生きるべきか」を知ろうとした時、「人間だけを見ていても何も見えるはずがない」と考えました。それは、人間が、宇宙や大自然との関わりの中に生きているからです。他国の人が日本という国とビジネスをしようと考える時、アジアのどの位置にあって、他の国とどんな関わり合いをもっているのかを当たり前に考えるのと同じことです。
人間の最大の師匠は大自然。
「人間の枠を超え、大自然を大きな目で分類することで初めて人間を知ることができるのではないか」という考えに行きついたのです。
そして、大自然の中に、ある一定の法則を見つけ出しました。それが、「陰陽論」「五行説」。
人間には男と女、物事には表と裏があるように、宇宙の真理はバランスにあると考え、この世の全ての事象を、陰と陽に分けて、その存在を明らかにしました。
また、この世の全ては、五元素(木火土金水)の何れかに属していると考えました。そして、それらは互いに影響し合っていることに気付いたのです。
「木が燃えて火を生み出し、火が燃え尽きると灰になり土となる」「そして土が固まると鉱物や岩となり、その岩間から水が生み出され、その水はやがて樹木を育てる」
この陰陽五行説を根幹とする算命学は、ついに唐の時代に学問体系として確立され、今日に引き継がれています。
算命学の活用
算命学では、人にはそれぞれ「宿命」があると考えます。「宿命」は言わば「植物の種」のようなもの。土に植えられても、その種の性質に見合った土壌や育てられ方をされなかったら、上手に花を咲かせることはできません。同じように、「宿命」という「人生の種」もまた、見合った土壌(環境)や育てられ方(努力)が整わなければ、人生の花を立派に咲かせることはできないと算命学では考えます。人は迷い多き生き物。時に人を羨み、時に人の期待に応えようとして背伸びして生きてしまう。
それはあたかも自分にぴったりの土壌を捨て、敢えて危険に挑むようなもの。
気が付いた時には宿命から大きく外れ、人生の苦しみとなってしまうのです。
まずは自分の宿命を知る事。そしてその宿命に見合った環境を引き寄せ、更に努力をする事。
「(宿命 + 環境)x 努力 = 運命 」
それが、満足の高い人生を歩む秘訣だと算命学は教えてくれています。
一方で、自分らしさを失ったと気付いた時には、軌道修正ができるとも教えてくれています。それが「運命の改良」。人間は失敗から学びとる生き物。時に宿命から外れても、軌道修正することで、そこに「工夫」が生まれ、更には、苦しみを経験することで、他人の心の痛みを理解できるようになったりもします。節くれだった木に味がある様に、人間もまた、数々の苦しみを経験することで人生を豊かなものにしているのかもしれません。